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「lino」はハコ書きに使えるか?

May 21, 2013

CATEGORY : 脚本

 以前、ツイッターでつぶやいた件です。linoというネット上の付箋サービスがあります。このサービスはパソコンの画面上に文字を書いた付箋状のものをどんどん並べて行けるというもので、脚本のアイデア出しや、ハコ書きに使えそうな感じです。とりあえずハコ書きに使えるかどうか試してみたので、今回はそのレポートです。
 で、使えるかどうかですが・・・これは「人による」というのが結論です。僕は「もうひとつ」というのが正直なところです。何が問題なのかというと、これはもう僕個人のやり方の問題なのですが、僕にとってハコ書きは、一直線にハコが並んでいてそれらがひと目でパッと見渡せる状態にならないと意味がないのです。1時間なら1時間の流れが視覚的に感じられる状態にしたいわけです。このlinoに限らず、パソコンの画面上でハコ書きをやる場合の問題は、1 時間のハコを直線に並べると、ひとつの画面には収まらず上下か横にスクロールする必要が出て来るということです。「一直線になってなくても別に困らない」という人なら、これは十分使えるでしょう。
 このサービスのいい点を言えば、「付箋を入れ換えたり、消したり、位置を変えたりということが簡単に出来る」「付箋の色や大きさに変化をつけられる(メインストーリーとサブストーリーで色を変えるとか)」「作った付箋はクラウド上にあるので、別のパソコンでもすぐに作業を続けられる」「複数の人で共有も出来る」などです。
 僕としては、ハコ書きよりはアイデア出しみたいな方が活用出来そうな感じです。そちらもやってみて報告します。あと、似たようなサービスでscrivenerというのもあるみたいです。

 下の写真は、脚本の原稿と、linoで作ったハコ書きを画面上に並べたところ。ハコ書きは下方向にさらに続いているわけです。

IMAG0078.jpg

 〔尾崎将也公式ブログ 2013年5月21日〕

脚本の初心者が避けるべき題材とジャンル

Apr 26, 2013

CATEGORY : 教室

春になり、色々な脚本の教室で新しいクラスが開校しています。僕が講師を務める日本脚本家連盟スクールでも講座がスタートしました。教室に入って、初めて脚本というものを書く人も多いと思います。どんなことを題材にして脚本を書くかは各自の自由だと思いますが、僕の経験上、初心者は避けた方がいいと思われる題材やジャンルがあります。今回はそれをいくつか挙げてみます。

「群像劇」
ドラマは一人の主人公を軸に書いて行くのが基本です。プロの作品には、主人公を一人に絞らず複数の人をまんべんなく描く群像劇というものがありますが、初心者はまずドラマの基本を学ぶために、一人の主人公を決めて書いた方がいいと思います。無理に群像劇を書こうとしても、散漫なものになるだけです。

「ものすごく取材や勉強が必要なもの」
例えは歴史上の事件を題材にするもの。脚本を書くために、題材について取材したり勉強したりすることは結構なことですが、それも程度問題です。ものすごく難しい題材に取り組み、多くの時間をかけて取材や勉強をしたとしても、その時点ではその題材に関して詳しくなっただけで、脚本の勉強はまだ何もしていません。脚本の基礎を学ぶのが今やるべきことなのですから、取材や勉強がそれほど必要でない身近な題材で書く方がいいと思います。

「時間や空間を限定したもの」
舞台劇では時間と空間が制限された設定の中でドラマを書くのは普通のことですが、初心者はこれは避けた方がいいと思います。制限があるというのは、逆手に取れば面白くなりますが、初心者には難しいことです。ストーリーが展開せず、とりとめのない内容になってしまう危険性が高いです。

「ミステりー、ファンタジー、アクション」
これらはエンタテインメントのジャンルとしてはポピュラーなもので、実際アメリカ映画の8割方はこのどれかでしょう。しかしこれらの脚本を書くには、そのジャンルならではのセオリーやノウハウが要求されるもので、脚本の基礎とは違うものです。観客としてそういう作品が好きということと、初心者が勉強のために書くべきかどうかは別の問題です。

「スポーツもの」
初心者がスポーツものを書くと、試合のシーンばっかりで肝心のドラマが全然ないという結果に陥りがちです。スポーツの試合の勝ち負けと、ドラマをシンクロさせることは実はけっこう難しいことです。シーソーゲームの試合を書きさえすればドラマになるというのは勘違いです。

講師をしていて、生徒がたまたまこういう題材を選んでしまって四苦八苦するのを見て「初心者にはこういうのは難しいんだな」と思ったものをいくつか挙げてみました。これで全部ではなくごく一部です。もちろん四苦八苦したり試行錯誤したりするのはいいのですが、いきなり難しい題材を選んでしまったために「脚本て難しい」と脱落して行く人をたくさん見て来ました。そうならないために、初心者として取り組みやすい題材を選ぶ方が無難だと思うのです。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年4月26日〕

締め切り間際にならないとエンジンがかからないという問題

Apr 22, 2013

CATEGORY : 脚本

先日、日本脚本家連盟スクールの説明会&特別セミナーを浅野妙子さんと一緒にやりました。特に決まったテーマもなく、脚本家の仕事について雑談のように話したのですが、このとき話に出たのが、それぞれの仕事のやり方の違いです。浅野さんはとにかく毎日規則正しく一定のペースで仕事する人です。朝から夕方まできちんと机の前に座って仕事をして、それを4日くらいやると1時間ドラマの初稿が書けるとのこと。
尾崎将也の場合はどうかと言うと、1時間ドラマの初稿が4日くらいで書けるという点は同じなのですが、その中身が全然違います。僕は毎日一定のペースで作業するということが全く出来ません。最初は「まだ時間あるからいいや」とダラダラして、間際になって「まずい。時間がない」と慌ててやるというパターンです。締め切りの前の日は徹夜になったりします。
浅野さんが10の分量の作業を均等に2.5 ずつ4日でやっているとすると、僕の場合は同じ10の作業を1、1、3、5という配分でやっている感じです。最終日には毎回「どうしてもっと最初から規則正しく出来ないのかな」と思うのですが、すっかりこれがスタイルになっています。ただし、締め切りに遅れるということはあまりありません。プロデューサーには仕事が早い方だと言われることが多いです。このやり方のせいで脚本の完成が遅れて迷惑をかけたり、仕事が減ったりしたら大問題ですが、そういうこともなくプロの脚本家として仕事出来ているので、改善を迫られることもなく、同じパターンを続けているのです。これも前回書いた「箱書きをするかしないか」という件と同じで、人それぞれのスタイルなのです。
僕のようなスタイルのデメリットは、締め切り間際に急な予定が入ったときに対応出来ないということです。毎日規則正しくやるスタイルなら、最終日に何かの急用で半日くらい取られたとしても、原稿はもうかなり出来ているのでその日だけ夜遅くまでやるとかいうことで対応出来ます。しかし「間際タイプ」はその日徹夜してやっと間に合うという状況なので、用事に半日取られると締め切りを一日延ばしてもらうしかなくなってしまうのです。
そういう問題はあるとしても、まあプロとして仕事出来ている限りはどっちでもいいじゃないかということなのですが、ふと疑問に思うのは、こういう仕事のスタイルが作品の中身にも影響しているのかどうかです。これはハコ書きをするかしないかが脚本の中身に影響するか否かというのと同じような問題です。
「間際タイプ」のやり方が作品にプラスになるとすれば、「前半ダラダラしている間にも脳の中では色々と考えている。それが熟成されて、後半一気に出て来るのだ」とか「時間がなくなって焦る気持ちが瞬発力となって、いいアイデアが出るんだ」とかいうようなことでしょう。しかし事実はどうかわかりません。これを証明するためには、規則正しく仕事してみて、どちらが作品にいい影響を与えるか比較してみるしかないでしょう。でもそれは無理な話なので、永遠に答えは出ないと思います。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年4月22日〕

「ハコ書き」という問題

Apr 08, 2013

CATEGORY : 脚本

脚本を書く作業の中に「ハコ書き」というものがあります。知らない人のために説明しますと、脚本作りの作業は普通、「プロット(ストーリー)」、「ハコ書き」、「初稿」、「直し」というふうに進んで行きます。ハコ書きはストーリーが固まった後、脚本を書き出す前にやる作業で、シーンの並びと各シーンの簡単な内容(誰と誰が何をするみたいなこと)を書いて行くものです。構成表と言ってもいいでしょう。ハコ書きという名称は、手書き原稿の時代のハコ書きはシーンを四角で囲って書くことが多かったことから来ているそうです。でも書式が特に決まっているわけではありません。と言うのもハコ書きは本来人に見せるものではないからです。脚本家やプロデューサーによってはハコ書きを見せて検討するようなこともあるのかも知れませんが、ごく少数でしょう。
ハコ書きについて脚本家が悩むことは、どんなふうにハコ書きをやるかというより、そもそもハコ書きをするのか、しないのかということでしょう。実際、ストーリーが決まったらハコ書きはせずにすぐ脚本を書き出す脚本家は多いです。どっちみちシーンの並びやシーンの内容を決めないと脚本は書けないので、事前にハコ書きという形でそれをやるか、脚本を書きながら考えて行くか、という違いです。どちらが正しいということはなく、自分にとってどちらがやりやすいか、どちらがいい脚本が書けるか、ということです。

「作家の眼-シナオリとは-」(映人社、昭和51年)という脚本家のエッセイ集を見ると、ハコ書き否定派の人が割と多いようです。

「確かにハコ書きを作ると構成はガッチリとなっていくのだが、シーンとシーンとがどんどん論理的なつながりを増し、その分だけ感性が蒸発していく。"これじゃ干物だ"というのがぼくの実感だった」(早坂暁氏)

「構成の段階でラスト・シーンができているとすれば、何を骨折って枡目を一字一字埋めていくのか、私にはさっぱりわからないことだ」(石堂淑朗氏)

では尾崎将也の場合はどうかと言うと、ハコ書きは「しない派」です。でも上のお二人のような創作に対するポリシーのようなものとは少し違う気がします。単にハコ書きをしていても途中で面倒くさくなって、「えーい、もう書いちゃえ」みたいな感じになってしまうからです。もうひとつハコ書きをしない大きな理由は、やったところでどうせ後で変わるからです。僕の場合、ハコ書きをしたからといって直す必要のない完成度の高い脚本が書けるということはありません。むしろ四苦八苦しながら脚本を直す中でやっと「そうか、この話はこうすれば面白くなるぞ」ということを発見できたりすることが多いのです。これが「大事なことは脚本を書いて人物を動かしてみて初めて生れて来る」という本質的なことなのか、それとも「試行錯誤しないといいことを思いつかない」という物理的なことなのか、どちらなのかよくわかりません。脚本家の中には、プロットやハコ書きの段階で完成作品のイメージがほぼ出来ていて、「あとは書くだけ」みたいな感じの人もいるのだと思いますが、そういう人とは全く違うタイプだというのは確かなようです。
どちらにせよ、自分のスタイルが決まっていて、それで仕事が滞りなく進んで行くならいいのです。僕の場合も「しない派」でほぼ決まりなのですが、上に書いたお二人のように確信に満ちているわけではなく、「あー、ちゃんとハコ書きをしておけばこんな苦労しなくてもいいのかな」などと毎回うだうだと思いながら脚本の直しをしています。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年4月8日〕

サルでもドラマの主人公になれる時代

Mar 30, 2013

CATEGORY : 映画

「猿の惑星:創世記」(11年 ルパート・ワイアット監督)を見て、ドラマにおける「主人公」というものについて改めて考えさせられました。普通、ドラマは主人公の行動や感情を軸として進んで行きます。受け身なだけの人物や行動しない人物は主人公にはなりにくいものです。逆に言えば、そのドラマの中で一番行動している人物、物語を主体的に動かしている人物が主人公ということです。
ドラマを分析的に見るとき、まずは誰が主人公か見定める必要があります。大部分の作品は一目瞭然で主人公がわかりますが、中にはちょっと考えないといけない作品もあります。例えば「ローマの休日」の主人公はオードリー・ヘップバーン演じるアン王女ではなく、グレゴリー・ペック演じるジョー・ブラッドレーです。この物語は、ジョーがアン王女をローマの街を案内することで特ダネをモノにしようと考え、その目論見を実行することで物語が進んで行きます。アン王女が主人公のような印象を受ける人が多いでしょうが、分析的に見れば主人公はジョーだとわかるのです。
さて「猿の惑星:創世記」の主人公は、実験で知能が発達したチンパンジーのシーザーか、彼に知性を与える研究者のウィルか。ウィルは最初にシーザーに知能を与える役目を果たすものの、その後は状況に受け身的に振り回され、主体的に物語を動かしているとは言えません。それに対してシーザーは、知性を持ってしまったために環境に適応出来ず、劣悪な施設に入れられてしまい、そこで苦難を味わうものの、それを乗り越えて他の猿たちを配下に従えて脱走する、というふうに自ら物語を進めて行きます。やはり主人公はシーザーでしょう。
この映画でシーザーを主人公にすることは、かなり思い切った選択だったのではなかったかと思います。なぜかというとシーザーは人間ではなく猿で、しかもCGで作られたキャラクターだからです。これまでにも実写映画で人間ではない動物やロボットが重要な役割を果たす作品はありましたが、それらの作品で主人公になるのは人間でした。「猿の惑星」の一作目は主人公は猿ではなく人間のテイラー(チャールトン・ヘストン)だし、「E.T.」の主人公はE.T.ではなくエリオット少年です。
一方アニメーションでは、人間も人間以外の存在も絵で描かれている点は同じなので、人間ではないモノが主人公になるケースはいくらでもありました。例えば「モンスターズ・インク」のように。
実写の場合は、生身の人間の俳優が出ているので、その俳優を差し置いて動物やロボットを主人公にするのは気が引けるようなところがあったのだと思うのです。スターに出演を頼むとき、「主役はCGの動物です。あなたには脇役をお願いします」などとは頼みにくいでしょう。
「猿の惑星:創世記」を見ると、その一線が崩れ始めていることを感じます。ひとつにはCGの発達により、人間以外の存在を感情表現まで含めてリアルに描写できるようになったことがあるでしょう。
しかし、それによってドラマの本質が変わったわけではありません。脚本家にとっては、むしろドラマの表現の幅が広がったと歓迎すべきことでしょう。一方、俳優さんはCGに主役の座を奪われる可能性が出て来たわけで、うかうかしてられない時代になったと言えるかも知れません。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年3月30日〕

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