有料コンテンツですが、「前書き」と第一章「脚本とは何か、ドラマとは何か」はお試しということで無料です。
まずは前書きからお読みください。
当ブログには、あちらには入らないようなことを書いて行きたいと思います。
]]> 刑事ドラマの一般的なパターンは次のようなものです。
①主人公の刑事がいる。
②ストーリーの初めの方で事件Aが起こる。
③主人公の刑事たちは事件解決を目差して捜査を開始する。
④捜査という「行動」をする。
⑤犯人は簡単に捕まらず、苦労する。
⑥ついに事件Aの犯人を逮捕して結末を迎える。
などです。
それぞれの意味を説明すると、
①ドラマにはそれぞれ決まった主人公がいます。刑事ドラマでも当然主人公の刑事がいます。(複数の刑事の群像劇のような例外はあるかもしれません)
②ドラマには初めの方で「この話はこういうことをやります」という提示があります。刑事ドラマでは事件発生がそれに当たります。事件がなかなか発生せずに刑事の日常描写がダラダラと続くなどということはありません。
③ドラマでは主人公が何をやるかという目標や欲求が初めの方で設定されます。刑事ドラマでは「犯人を逮捕して事件を解決すること」です。
④ドラマは主人公が行動することで展開して行きます。刑事ドラマでは捜査がそれに当たります。刑事が「犯人の手がかりがない。どうしたらいいんだろう」と延々と悩むだけということはありません。一時的に悩むことはあっても、すぐに次の行動を見つけます。
⑤ドラマには「葛藤」が必要です。簡単にいうと「主人公が困る」ということです。刑事ドラマでは犯人が逃げている、または犯人が誰かわからないということで刑事は困っており、それを解決するために苦心します。犯人が簡単に捕まっては面白くありません。
⑥ドラマでは主人公は最初の方で設定された目標を最後に達成します。つまり一貫した軸があるということです。刑事ドラマでは最初に起こった事件Aを捜査し、その事件の犯人を捕まえるということです。事件Aが途中でうやむやになり、別の事件の話になるなどということはありません。
よほど変則的なものを除いては刑事ドラマはこれらの条件を満たしています。そしてこれらの条件は、一般の人間ドラマでも同じことです。しかし一般の人間ドラマは刑事ドラマのように必ずしも決まったパターンを当てはめられるわけではないので、初心者はこれらの条件を満たしているかどうか忘れがちになるのです。そのため「刑事ドラマに例えると変」なことがしばしば起こります。
具体的には「事件がなかなか起こらない」「簡単に犯人が捕まってしまう」「刑事がなかなか捜査しない」「最初の事件と最後に解決した事件が違う」などです。
ということは、これらの問題を解決するために刑事ドラマを物差しとして活用すればいいのです。「事件発生に相当することがちゃんと初めの方で起こっているか?」「刑事が捜査するように主人公が行動しているか?」というようなことです。
注意すべきなのは、刑事ドラマにおけるメインの葛藤は「犯人が誰かわからない、または犯人が逃げている状況」との葛藤で、いわば「人対環境の葛藤」です。それに対して一般の人間ドラマはほとんどの場合、人対人の葛藤がメインになります。また一般の人間ドラマでは、結末が犯人逮捕のようなデジタルでわかりやすい解決を取らない場合もありえます。というように全く同じとは行かない場合もあるということも認識が必要です。
それでもやはり刑事ドラマを尺度として使うのは初心者には有効だと思います。刑事ドラマの他にもヒーローものやスポ根ものなどはパターンが決まっていることが多く、同様に物差しとして使うことが出来ます。だから自分がこれらのジャンルの作品を書くつもりがないとしても、これらのジャンルを分析してパターンを知ることには意味があるのです。
[尾崎将也 公式ブログ 2020年2月18日]
]]>①原稿にセルフ突っ込みをどんどん書き込む
脚本を書いていて、セリフ、ストーリー展開、人物描写などで、「ちょっといまいちかな」と思って考え直すということは当然あります。しかしよりベターなことがその場ではすぐに思いつかないこともあります。そのときは僕は原稿のその場にセルフ突っ込みをどんどん書き入れます。「このセリフいまいち」「ここ不自然」「こういうパターンもあるのでは」みたいに思ったことをどんどん言葉にして書いてしまうのです。そのとき他のセリフやト書きとごっちゃにならないように、行頭に★印を入れます。そしてそのまま作業を先に進めるのです。
もちろんその場で解決法を思いつけばそれでいいのです。しかしそこで考え込んで時間を費やすより、先に進んだ方がいいと思える場合もあります。解決を思いつくまで粘るか、先に進むかはその都度判断するわけですが、僕はそう難しく考えずに先に進む方を選びます。
いずれにしても、どこかの段階でこれらの突っ込みに対する解決法を思いついて、そこを直して★印をを消して行きます。エンドマークまで原稿が進んで、なおかつ途中に★印がひとつもない状態になれば原稿が完成ということです。
②途中で何度も印刷する
ほとんどの人が原稿をパソコン入力していると思います。入力しながらセリフやト書きを考え、書き込みながら先に進みます。そして途中で前に戻って読み返し、考え直すということもあるでしょう。僕は原稿が完成していない段階で、パソコン画面で読むだけでなく、紙に印刷して読むということを何度もやります。パソコン画面で読むのと紙で読むのと、読んでいる文字は同じなのですが、パソコン画面で見ているときに思いつかないことを紙で見たときに思いつくということがよくあります(誤字脱字に関しても同じ)。なぜそういうことが起るのかはよくわかりません。
このときに、赤で直しをどんどん紙に書き込んで行きます。上に書いた★印の部分に対する解決法もここで思いつくことが多いです。そして赤を入れたものを元に、再びパソコン入力する作業に戻ります。これを何度か繰り返して、原稿の完成に向かうのです。
③流れを紙に書く
原稿の途中段階で、ここまで書いた流れを箇条書きで書きます。「書いたところまでの箱書き」です。もし脚本を書く前に箱書きを書いており、その箱書き通りに脚本を書いているならこの作業は必要ないでしょう。でも僕は箱書きを書かず、プロットを書くと次に脚本に進むので、出来たところまでの流れを確認するためにこの作業をするのです。
この作業をすると、原稿を読み返すだけでは思いつかない問題やその解決法を思いついたりします。このシーンはいらないとか、ここにこういうシーンを挿入しようと思ったりします。またこれから先の展開を思いつく場合もあります。これらは赤で書き込みます。僕の中では直しや「未確定なこと」を赤で書くのがルールです。
④プロットを脚本フォーマットに貼り付ける
プロットができて脚本に進むことになると、僕はプロットの文章を脚本のフォーマットにコピペします。そしてそこにあるプロットの文章に対して、ト書きやセリフに置き換える作業をして行くのです。これの利点は、今どこまで脚本作業が進んでいるかわかりやすいのと、最終的にどれくらいの枚数になるかを感覚的につかみやすいということです。
生徒の場合、プロットで「そして二人の心が通じ合って行く」などと「そこを膨らませなきゃいけないところだろう」というところを一行で済ましてしまうことがよくあります。このやり方をすれば、「そして二人の心が通じ合って行く」という一文を目の前にして、「えっ、これをどうやって脚本にするんだ?」とプロットの問題点にも気づきやすくなるかもしれません。
脚本を書く作業は決まったお作法はなく、自分にとってやりやすい、効果的な方法を選んで行けばいいのです。以上に書いたことは、僕がたくさん仕事をする中で自然と考案したものです。ずっとやっているということは、自分にとっては効果的ということでしょう。
[尾崎将也 公式ブログ 2020年1月2日]
]]>「身近な題材を」と言ったとき、「自分の身近にドラマになるようなことはない」と思う人が多いようです。しかしよく考えればドラマになることはいくらでもあります。これは「今ある現実がそのままでドラマになる」ということではなく、今ある現実の中にこんな要素を加えるとドラマになるのでは?というようなことです。例えばある男性の会社に女性の上司が来たという現実があったとして、実際にはその人との間に男女関係は何もないとしても、もし自分が女性上司を好きになったらどうなるか?という話を考えてみるとか。妄想するのは自由なので、そういうところに想像の羽を伸ばせばいくらでも物語は作れるはずです。
一方、身近な題材を選んだとして、ひとつ大きな落とし穴があります。例えばある人が現実に母親との間に問題を抱えているとして、そのことをドラマに書こうと思ったとします。まさに「身近」な題材です。しかしこういう場合、作者本人が母親との問題をまだ解決できていないのにドラマの中で主人公に同じ問題を解決させられるのか、という障害に直面します。物語の中で問題を解決をさせたとしても、リアリティのない絵空事のようになったり、生ぬるいご都合主義になったりする危険性が高いのです。現実に自分がどうしていいか答えが見つかっていないのに主人公が都合良く解決を見つけられるとは思えません。
こうなると、せっかく身近な題材で、しかも「これを書きたい」と強く思える題材を選んだのに行き詰まってしまうということになります。
しかしここまで考えたとき、「自分は普段どうやってドラマを書いてるんだっけ?」と不思議な気持ちになりました。シリアスな作品の場合は、主人公はかなり過酷な状態に追い込まれ犠牲を払ってそれを乗り越えるような物語を考えないと観客を楽しませたり感動させたりする作品にはなりません。しかし自分が実人生の中でそんなに過酷な問題に直面して、それを乗り越えた経験があるかというと、そんなことはないのです。例えば『僕が笑うと』というドラマでは主人公は戦争が激化する中でどっやって生き延び家族を守るかという問題と闘います。しかし僕には子供はいませんし戦争の経験もありません。
ではなせそういうドラマが書けたのか? ドラマというのは作者の脳から出てくるもので、その源泉は脳の中にあります。何かが書けたということは、自分の脳の中にそれがあったということです。
自分の脳の中になぜ色々なドラマの元になるものがあったのかと考えると、それはやはり映画、テレビドラマ、本などからインプットしたもの以外にはありえません。もちろん実際の経験から得たものもあるでしょうが、僕に限って言えば、実際の経験など微々たるもので、映画や本から得たものに質と量ではるかに及びません。
さっき「もし女性上司を好きになったら」という例を書きましたが、現実に経験していなくてもそういう物語を創造出来るということは、やはり映画や本からインプットしたものがあるからでしょう。自分が乗り越えたことのない問題をドラマの主人公に乗り越えさせることができるのも、経験がなくても脳の中にはそれが書ける元になる「何か」があるということです。
結論としては、題材が身近なものだろうが全然経験のないことだろうが、脳の中にドラマの元になるものがあるならそれでいいということになります。そして、「ない」のなら「ある」状態にしないといけないということです。
人間には色々なタイプがあって、人生経験が豊富でそれが創作の源泉になる人もいるでしょうが、人間が実際に経験出来ることの総量には限界があり、やはり脚本を学ぶ人の目標設定としては「たくさん人生経験をするぞ」というよりは「たくさん映画を見たり本を読んだるするぞ」という方が取り組みやすいのではないかと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2019年12月29日]
]]>「脚本の教室の生徒がなかなか成果が上がらない原因は、ほとんどの場合、アウトプットすることを焦ってインプットに時間と手間を割かないことです。アウトプットはインプットしたことからしか生まれないというこの世の基本原則を受け入れるしかありません。」
それを見た人から「何をインプットすればいいんですか?」という質問が来ましたので、そのことについて書きます。
以下、脚本の勉強としてインプットすべきことを列挙します。
①いい映画をたくさん見る。
見るべきものは、映画の他にも、テレビドラマ、演劇、落語など色々あるでしょうが、脚本の勉強には名作映画を見て分析するのが一番効率がいいと僕は思います。なのでここでは代表して「いい映画」と書いています。
②見た映画を分析して、どんな話か、どんな構造か把握し、面白くするためにどんなテクニックが使われているかを抽出する。
分析の方法は拙著『3年でプロになれる脚本術』に詳しく書きましたのでそちらを読んでください。
③本をたくさん読む。
小説を読むことは①に準ずることです。小説以外にもノンフィクション、エッセイ、専門書などを読むことも大切です。これらを読むことで、知識や客観的思考力を身につけるだけでなく、下記の⑤、⑥、⑦に相当することを居ながらにして凝縮した形でインプットできます。
④作品を書いて、専門家の意見を聞き、直す。
作品を書くことはアウトプットですが、人の意見を聞いて直すというフィードバックの作業は大切なインプットです。
⑤色々な経験をする。
⑥見聞を広める。
⑦人間観察をする。
⑤、⑥、⑦は実生活の中で行うことですが、色々な経験をしろと言われても、「今年は恋愛をしよう」などと計画的にできるものではありません。また不幸な経験が大きな糧になることはありますが、わざとそんな経験をするのはナンセンスです。それに対して見聞を広めたり人間観察をするのは意識的にできることです。
⑧考える。
インプットしたことに頭の中で考察を加えて、深めたり、意味づけしたり、体系化したりすることは非常に重要な作業です。
ざっとこんなところでしょうか。非常に多岐にわたり、時間と手間を必要とするものです。限られた時間の中で、作品を書きながら、映画を見て本を読んで、さらには外に出て色々な経験をしろなんて、あまりにやることが多すぎる感じです。しかし脚本を書く力を身につけるには必要なことばかりです。これらが元になって作品が生まれるのです。ひとつ耳寄りな情報があるとすれば、色々な経験をすることは、映画をたくさん見たり本をたくさん読んだりすることである程度代替できるということです。僕は人生経験が豊富と言える人間ではなく、生徒のときには「こんなに人生経験が少ない状態で脚本家になれるだろうか?」と不安に感じていました。しかし結果としてはなれたので、映画や本で補ったのだと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2019年10月25日]
]]>そんな中で、生徒の作品を読んでいて気づいたことがあります。「どうも面白くならず、盛り上がらないこの感じ、なんだろう」と考えるうちに、「反応的」という言葉が浮かんで来たのです。生徒が考えるストーリーには人物の反応的な行動が多いのです。
反応的というのは普段はあまり使わない言葉ですが、「主体的」の逆の意味です。ネットで調べると「主体性を発揮しようとしないで、起こったこと、さまざまな刺激、問題、事件、出来事に対し、そのまま感情的に反応してしまうこと」とあります。
脚本の勉強を始めると、「ドラマの主人公は能動的に行動しなければならない。受け身なだけではダメ」ということを聞くと思います。それを意識して人物に行動させようとしている人も多いでしょう。それでもなかなか面白いものにはならない原因のひとつが、「行動が反応的」だからです。
「人物が反応的」とは具体的にどういうことでしょうか。例えば風邪で熱が出たとき、病院に行くのは普通のことです。しかし僕は、この病院に行くという行為がドラマの中では反応的な行動という感じがするのです。病院に行くのは確かに「行動」であり、「病気を治そう」という自分の意思で行うことです。「人物は行動しなくてはいけないという条件をちゃんと満たしているではないか」と言われるとその通りです。しかしあまりに普通のことなので、面白さや意外性を伴わず、その人物のキャラクター表現にもならないのです。逆に「熱があるのにやせ我慢して病院に行かない」という選択をした方が、何となく面白い感じがせんか? 病院に「行かない」というのは一見行動していないようですが、「つまらない意地を張る」という主体的な行動をしています。それは普通ではなく、その人物の性格や考えによる「固有」のものなのです。それが面白さにつながって行きます。
ではドラマの人物は熱が出ても病院に行ってはいけないのか?というとそういうことではありません。もしかしたら病院に行って意外な人物との出会いがあったり、風邪の診察のつもりで行ったらがんが見つかったり、そこから面白いストーリーが展開するかもしれないからです。つまりその後の面白い展開を生み出すための「段取り」なら反応的な行動もありということです。
しかし生徒が考えることは、反応的なことばかり連鎖してしまうことが多いです。例えば「夫が妻と喧嘩する」「夫は友人に相談する」「友人は妻にプレゼントしろとアドバイスする」「夫はプレゼントを買いに行く」この流れの中で夫のやっていることは全部反応的で、あまり面白くありません。もちろん絶対に面白くならないということではありません。セリフやキャラが面白かったり、心の機微が繊細に描かれたりすると、流れは凡庸でも面白くなる可能性はあります。しかし少なくともこのストーリーを読んで「面白いな」と感じる人はいないでしょう。
百かゼロかという話ではないので難しいところですが、自分の考えたストーリー上の出来事が反応的ではないか、それが連鎖しすぎではないかということをチェックしてみるとよいと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2019年2月14日]
]]>主人公はドラマにおいて非常に重要な存在、というより主人公無しにドラマは存在することが出来ません。脚本の勉強を始めたばかりの人は当然そんなことは知りません。早いうちに主人公とは何かという認識をきちんと持つことが必要です。そうしないといつまでも形にならないものを書き続けることになります。
主人公とは主体的に意思を持って行動し、そのドラマを動かして行く人です。ドラマには対立・葛藤が必要です(なぜ「対立・葛藤」が必要なの?という疑問が沸くかもしれませんが、それはまた別の機会に)。主人公は行動することで対立や葛藤に直面し、悩んだり苦しんだりします。その結果新たな行動を起こすことで、ストーリーを動かして行きます。ですから主人公はそのドラマの中で一番悩んだり苦しんだりします。
「意思を持って」「行動し」「そのことで対立・葛藤に直面し」「悩んだり苦しんだりする」「そのことでストーリーを動かして行く」などが主人公の条件と言えます。
教室で初心者のプロットや脚本を読んで、「この作品の主人公は誰?」と聞くと、色々な答えが返って来ます。
よくいるのが「この人と、この人が主人公です」と主人公が複数いると答える人。原則として主人公は一人です。その主人公の行動を軸に作って行くので一本のストーリーが出来るのです。まれに映画やテレビドラマで、二人以上の人物を平行して描き、誰が主人公かはっきりさせないものがありますが、あくまで例外的なものです。まずは基本から学ぶようにしましょう。
また「主人公はこの人です」と作者は答えるものの、僕が読むと別の人物が主人公ではないかと思える場合も多いです。つまりストーリーと主人公が食い違っているのです。これではちゃんとしたドラマは出来ません。
この「ストーリーと主人公が食い違っている問題」について少し詳しく考えてみましょう。例えば人物Aと人物Bが出会うとします。Bは実は詐欺師で、Aをだまそうとしていますが、Aはそのことを知りません。そして詐欺の計画は進行し、最後にAはだまされたと知る。この話の場合、どちらが主人公になりやすいでしょうか。通常は詐欺師の方が主人公になります。なぜでしょうか。それは詐欺という行為を主体的に意思を持って行い、うまく行かせようと苦心したり、罪悪感に悩んだりするのは詐欺師の方だからです。「被害者だって、だまされたことで悩んだり、金を失って困ったりするじゃないか」と思うかもれませんが、それはだまされたと知った後のことです。詐欺が進行している間は被害者は何も知らず受け身の状態です。
詐欺の被害者が主人公になるとしたら、ストーリーの早い段階でだまされたと知り、犯人を捕まえようと行動するか、途中で「あの人は自分をだまそうをしているのでは」と疑いを抱き、真相を探ろうと行動するなどの場合です。
次に主人公について実例を元に考えてみましょう。『ローマの休日』の主人公は、アン王女(オードリー・ヘップバーン)と記者のブラッドレー(グレゴリー・ペック)のどちらでしょうか。教室の生徒にこれを聞くと、面白いくらい間違えて「アン王女」と答えます。しかし正解はブラッドレーです。ブラッドレーは「王女をローマの町を案内してこっそり写真を撮り、それで金儲けしよう」ともくろみ、それを実行します。そしてそれをうまく行かせようと四苦八苦します。またそれをするうちに王女を好きになり、せっかく撮った写真を封印します。それに対して王女は上記の詐欺の被害者と同様に何も知らずにローマの町を案内されています。
なぜ多くの人が王女が主人公だと思ってしまうかというと、「王女の方が何となく目立っているから」に過ぎません。主人公というのはもっと厳密で論理的なものです。ポスターに大きく顔が写っているから主人公とは限らないのです。
また「語り部が主人公とは限らない」というのも間違えやすい点です。語り部はストーリーの案内役で、その人がストーリーを動かす主人公とは限りません。例えば『タイタニック』はローズが語り手ですが、主人公はジャックです。
ただ、ラブストーリーの場合、メインの男女二人でストーリーを作るという性格が強いので、主人公と相手役の重要度の差が少ないことが多いです。ただそれでも「主人公がどちらかわからない」などということはなく、分析すれば必ずどちらかが主人公の役割を果たしているはずです。
主人公について理解を深めるのに一番いい方法は、既存の映画などを見て主人公は誰かを考えることです。『ロッキー』のような映画はロッキーが主人公だというのが一目瞭然ですが、例えば小津安二郎の『晩春』などは、父と娘のどちらが主人公か考えるとよい勉強になるでしょう。主人公について考えることは同時にドラマやストーリーについて考えることです。上に書いた「どうしてドラマには対立・葛藤が必要なのか?」というようなことも、これらのことを分析する中でわかってくるのではないかと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2018年12月16日]
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(1)好きな相手が自分のことを好きになってくれない
「あの人と結ばれたい」という人物を阻む最大のカセがこれだと言えるでしょう。しかしこのカセだけで全体を通す作品は案外少ないです。主人公が相手を追いかけ、相手が拒否するだけでは面白くなりにくいからでしょう。「男はつらいよ」シリーズでは主人公の寅さんは毎回マドンナに失恋しますが、マドンナは寅さんを拒絶するわけではなく、二人の間に心の交流が生まれ、「この二人、ひょっとしたらうまく行くかも?」と思わせる場合が多いです。相手が主人公をずっと拒否し続ける作品では「101回目のプロポーズ」があります。
(2)周囲の状況がカセになる場合
主人公の男女の気持ち以外の要素がカセになる場合です。典型的なのが「ロミオとジュリエット」で、二人は好き同士なのにお互いの家が敵同士であることがカセになります。その他に「病気」「貧乏」「戦争」「災害」「身分や立場の違い」「差別や偏見」「距離的に離れていること」「すでに別の人と結婚していること」など色々あります。親が「あんな奴との結婚は許さん!」と言うのもこの一種ですが、この場合は親が反対する理由(貧乏とか家柄とか)の方がカセだという考え方も出来ます。
(3)ライバル
どんなラブストーリーにも大抵ライバルが登場します。ライバルは主人公より優れた部分を持っているのが普通です。ルックスとか金とか学歴とか家柄とか。それがないと主人公にとって脅威にならない(カセにならない)からです。
ライバルを嫌な性格にするか、いい性格にするかでドラマが大きく変わります。例えばヒロインが嫌な性格のライバルと婚約した場合は、ヒロインがなぜそんな選択をしたのかでヒロインのキャラが変わって来ます。「タイタニック」の場合はヒロインのローズが嫌な金持ち男と婚約したのは自分の家を経済的に助けるためで、本人は全く相手を好きではないという設定です。
「ライバルがいい人」の典型的な例は「風と共に去りぬ」です。ヒロインのスカーレットが自由奔放なキャラなのに対してライバルのメラニーは良妻賢母的な優しい性格で、「ほとんどの男はメラニーを選ぶだろう」と思えるくらいいい人として描かれています。
(4)お互いの心の中のカセ
お互いに憎からず思っているのに、自分の気持ちに素直になれなかったり。勇気を出して好きと言えなかったりする場合です。つまりカセは自分の心の中にあるということです。「恋人たちの予感」にはほとんどこのカセしかありません。誰が反対するわけでもなく、強力なライバルがいるわけでもなく、身分や病気が二人を阻むわけでもありません。それでも面白い作品を作ることは出来るのです。現代は昔に比べると、身分や貧乏や親の反対など恋愛のカセになるものが少ないので、この種類のカセの重要度が増していると言えます。僕が脚本を書いた「結婚できない男」は「主人公の性格」が唯一のカセです。
普通は以上のカセのバリエーションと、その組み合わせでストーリーが作られます。例えば「主人公が仕事のために彼女との約束の場所に行けない」という場合、仕事が忙し過ぎるというのは(2)の外部にあるカセですが、「つい仕事を優先してしまう」というのは(4)の心の中のカセで、それらが組み合わされています。プロはいちいちこのストーリーのカセはこれだなどと考えなくても無意識に複数のカセを組み合わせてストーリーを作ります。初心者は意識的に考える必要があるでしょう。
携帯電話が普及し始めたとき、「携帯電話のせいで恋愛ドラマは作りにくくなるだろう」と言われました。いつでも気軽に連絡出来ることで恋愛のすれ違いがなくなってしまい、ストーリーが作りにくくなると思われたのです。でもふと気づくと、そんなことは全然気にせずドラマを作っています。今、「スマホのせいで恋愛ドラマが作りにくい」と言う人はいません。どんなに世の中が便利になっても人間にとってのカセは至る所にあり、なくなることはないということだと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2018年9月15日]
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プロットが長くなってしまうというときには、二つの可能性があります。
①時間的な長さが長い(1時間もののつもりで書いたのに2時間になってしまうというようなこと)。
②詳細を描き込んだので長くなる。
長くなる原因はこの二つか、それが混合したものです。この二つは大きく違います。②で長くなることは何の問題もありません。色々考えるうちにディテールを思いついて、それを書き込むことで長くなるというのはあることです。例えば「<A>二人はひょんなことで知り合う」というのを、「<B>二人は道で肩がぶつかり、片方が持っていたものを落として壊してしまう。弁償するのしないのということでモメるうち、お互いが同郷だということがわかり、いつしか打ち解ける」などと具体的な中身を書くというようなことです。<A>より<B>は文字数は長いですが、出来上がったドラマ(脚本)の二人の出会いのシーンの長さが変わるわけではありません。
<A>のプロットで脚本を書こうとした場合、二人がどうやって出会うかという具体的な中身は脚本の作業の中で考えることになります。それに対してプロットで<B>まで出来ていれば、それを脚本に起こして行く作業になります。どっちにしても考えなければいけないことを、プロットの段階で考えるか脚本の段階で考えるか、という違いでしかありません。これはどちらが正しいということはありません。それぞれやりやすい方でやればいいのです。
そのことと、①のプロットが長いせいで作品自体が長くなることは全然別のことです。1時間ドラマのコンクールに出そうとしているのに2時間のプロットになってしまったとしたら大きな問題で、これはプロットの段階で解決しなくてはいけません。今回の質問をした人は、自分のプロットが長い原因が①なのか②なのかを見極める必要があるでしょう。
2時間ドラマのプロットを1時間ドラマにしようというとき、ところどころカットすればいいということはありません。1時間ものと2時間ものでは構造が違うので、そこから考え直さなくてはなりません。ところどころカットしたり書き足したりして長さの問題が解決するのは、僕の経験では1~2割長いか短いかという範囲です。それ以上になると上に書いたように構造の問題になってきます。
しかし、自分が書いたプロットが脚本にしたときにどのくらいの長さになるかというのは、初心者のうちにはなかなかわからないでしょう。これは何本も書いてみて試行錯誤しながらつかんで行くしかありません。
[尾崎将也 公式ブログ 2018年8月16日]
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]]> 本書では、映画を見るときは一回目はお勉強モードにならずに、普通に観客として見るように、と書きました。その理由は、人を楽しませるものが書けるようになるには、まず自分自身が映画やテレビドラマを楽しんでいることが大切だからです。つまらないと思ったり退屈したりということも逆の意味で大切です。観客として何かを思っていることが必要なのです。
次に、自分が何を面白いと感じたのか、どこに感動したのかを考える段階に入ります。ここからが分析の作業です。漠然と「なんか面白かったなあ」というだけでなく、
①どこがどう面白かったのか思い出す。
②そこはなぜ面白いのか考える。そして「ここがこうなっている」「こんな工夫があるから面白い」という答えを見つける。
③それを言語化し、紙(カード)に書く。
という作業を繰り返すのです。
要は①~③の作業をたくさんやればよいので、別にそれ以上のお作法のようなものはありません。よく出来た映画を詳細に分析すれば、20~30枚のカードを書くことが可能でしょうが、別に1枚でも書ければそれでよいのです。また作品全体を見ていなくても、例えばテレビドラマをたまたま途中だけ見たときに何か気付いたことがあれば、それで1枚のカードを作ってもよいのです。
それとは別にストーリーや構成を学ぶ方法として、映画を見て構成表(逆バコ)を作る方法を書きました。今回の質問は「構成表を作るのは2回目に見るときか3回目に見るときか?」ということですが、別にそんなことはどうでもいいことです。
構成表を作る作業自体は単純作業です。上に書いたカードを作る方法は、カードに書き込む時点で何かを発見しているはずです。しかし構成表は、それ自体は単に流れを箇条書きに書いただけのもので、書く時点でまだ何もわかっていなくてよいのです。
問題は、出来た構成表を見て何を読み取れるかということです。まずは「ここで主人公が登場している」「ここで主人公が事件に巻き込まれている」「ここで話が大きく転換している」など表面から読み取りやすいことを読み取って行きましょう。
次に「三幕に分けるとすればどこか?」「クライマックスはどこか?」「ミッドポイントがあるとすればどこだろう」など深い部分に入って行きます。この段階のことをやるには、そもそも「三幕構成とは何か」「クライマックスとは、ミッドポイントとは何か」というようなことがわかっている必要があります。わからなければわからないなりに「どうも自分はまだよくわかっていないようだ」と思えばよいのです。何も思わないよりは意味があります。
カード作りにせよ、構成表から読み取る作業にせよ、作品を何度も見て考えることを繰り返せば、見方は深まって行くはずです。だから「何回目に見るときにこの作業をやるべき」というようなことはないのです。繰り返し見ながらやって行けば、前に見たときにわかっていなかったことに気付くことがあるでしょう。
「そんなに一本の作品の分析に手間をかけるのか?」「どのくらいで別の作品に移ればいいの?」という疑問が沸くかもしれませんが、特に決まりはありません。飽きたら別の作品に移るでもいいし、「一本の作品を深めるより多くの作品にトライしたい」と思うのであればそれでもいいと思います。上にも書いたように、チラリと見ただけの作品からひとつだけでも学ぶことがあれば儲けものなのです。この勉強法は、何かをクリアして次に進むものではなく、たくさん積み重ねた先に何かが見えてくるという性質のものです。本書に書いたやり方は、「これが正しいやり方なのでそれを守ってやるべき」などということは全くありません。自分でやるうちに「こっちの方がやりやすい」とか「この方が効果がありそうだ」と思えば、変更してよいのです。
ここに書いた方法に限らず脚本の勉強は、長期間かけて少しづつ積み上げていくものです。短期的なことなら「頑張って」やることが出来ますが、長期的なことを頑張り続けるのは難しいです。頑張らずに、日常的に、ごく普通のこととして楽しんでやることが長続きする秘訣です。
[尾崎将也 公式ブログ 2018年4月6日]
[告知]
★新ドラマ『シグナル 長期未解決事件捜査班』4月10日(火)より毎週夜9時放送
★映画『世界は今日から君のもの』DVD&Blu-ray 5月2日(水)発売
]]>(1)一人の主人公を決める
ドラマは、ほとんどの場合、「特定の一人の人物を主人公としたドラマ」です。「この人の、こういうドラマ」というところにその作品の本質が現れます。この原則から外れた「群像劇」のようなタイプの作品も例外的にありますが、初心者はまずは基本を勉強することが大切なので、「主人公はこの人」と決めて「その人が主人公のストーリー」を考えてください。なぜそうしなければいけないんだろうと思っても、とりあえずは「それがルールらしい」と思っておいてください。
(2)葛藤があるか
「ドラマには葛藤が必要」というのは、脚本の勉強を始めたら必ず聞くことでしょう。しかしそれは初心者にはわかりにくいことのようです。「葛藤が必要」と意識した上で書いても、往々にして葛藤のない作品になります。
葛藤とはわかりやすく言えば、「主人公が困ること」です。例えば刑事ドラマの「困ること」は犯人が誰かわからないか、誰かわかっているけどどこにいるかわからないということです。主人公の刑事が捜査して、その困ったことを解消するのが刑事ドラマのストーリーです。困ったこと(犯罪)が起こらず「平和でいいなあ」と言っていてもストーリーにはなりません。
また初心者は「葛藤をワンポイント入れればOK」という勘違いをよくします。「この作品には葛藤がない」と言うと、「あります。ほら、ここに」と一行を指さすのです。刑事ドラマで事件発生から捜査して犯人を逮捕するまで一定の時間を要するように、葛藤は「時間の中」に存在します。
また葛藤には「人物対人物」「人物対環境(貧乏とか病気とか)」「人物の心の中の葛藤(迷いとか自己否定とか)」の三種類あると覚えておくと、考えやすいでしょう。
(3)一本の軸に絞る
初心者に「これはどんな話か」と聞くと、「あれと、これと、これも」などといくつも言うことがあります。ドラマは主人公が一人というのが原則であるのと同じように、ストーリーの軸もひとつというのが原則です。もちろんメインの軸に対してサブストーリーがあるのは普通ですが、それはメインの軸を描く上でそのサブストーリーを入れることが効果的だという判断により、あくまで「サブ」として入れられているものです。中には全く関係のないように見える複数の話が交錯するような作品もありますが、例外的なものです。
(4)知っている範囲のことを書く
知らない世界を取材して書くことは悪いことではありませんが、時間や手間をかけて取材したとしても、それはその取材対象について詳しくなっただけで、脚本を勉強したわけではありません。先日、刑事と交番のお巡りさんの違いを知らずに警察を舞台にした作品を書こうとしている生徒がいましたが、そんな状態から警察のことを調べ始めて、警察を舞台にした作品が書けるようになるにはかなり長い道のりが必要です。今は脚本の基礎を勉強することが第一なので、自分が知っている範囲のことを題材にした方がいいと思います。
(5)自分がなぜそれを書きたいか答えられるものを書く
教室では「とにかく課題を提出しなければ」ということで深く考えずに書いてしまい、「なぜこれを書いたの?」と聞いても「いや、何となく」くらいしか答えられない人が割といます。ドラマを書くには、その題材やテーマに深く入り込むとか、人物に共感したり興味を持つことが必要です。
何となく思いついたことであっても(どんな思いつきも最初は何となく浮かぶものですが)、自分はなぜそれを思いついたんだろう、どこに興味を引かれたんだろう、ということをよく考えるべきです。それを突き詰めたときにそのドラマの本質が見えるのです。
(6)「ストーリーの途中から入ること」を考えてみる
初心者に限らず、そこそこ勉強した人でも、ストーリーの前段の部分に余計な枚数を割いてしまい、肝心のストーリーが始まるのが遅くなってしまうということがよくあります。話を考えているときには必要な段取りだと思っているのでしょう。生徒にはそういうことがよく起こるのだと認識して、「思い切って前の方を省略して途中から入る方法はあるか?」と考えてみた方がいいでしょう。
以上が全てではありませんが、重要度の高そうなものを書きました。これを横に置いて「これらがクリア出来ているか」を確認しながら考えてください。
ただ、そうやって注意して考えたつもりでも、間違いをすることはあるでしょう。試行錯誤は必ずあるし、必要なことです。ここに書いたようなことを注意するのは、試行錯誤をしないいためではなく、「ちゃんと必要な試行錯誤をするため」と言えるでしょう。
[尾崎将也 公式ブログ 2017年12月26日]
]]> 前回、「僕は小説を書くことはすごく難しいことのような気がしていました。脚本を書くよりは高度な能力を必要とする作業のような気がしていたのです。」と書きました。その後でふと思い出したのですが、以前ある人に「脚本って小説より難しいですよね」と言われたことがありました。自分が思っていたことと逆だったので、僕は意外な気がしたのですが、彼がそう思う理由は、小説家は二十代でデビューする人がいる(中には十代の人も)が、脚本家はほとんどが三十代を過ぎてからデビューするから、ということでした。
実際、脚本家のデビューは小説家より遅いのかもしれません。データをとったわけではないので正確にはわかりませんが、少なくとも十代で彗星のようにデビューして脚光を浴びた脚本家というのは聞いたことがありません。
しかし、だから脚本の方が難しいということにはならないのではないかと思います。小説は自分の知っている身の回りのことや、自分の分身のような主人公の内面を描くことで作品が成立します。それに対して脚本の場合、プロとしてやって行くにはより幅広い人物(年齢層や職業など)や事柄を客観的に描く必要があります。それを書くにはある程度社会人経験がある方が有利です。脚本家の方がデビューが遅いとしたら、脚本が難しいからではなく、脚本と小説の特性の違いによるものではないでしょうか。
以前、小説は脚本より難しそうだと思っていた僕ですが、実際に小説を書いた今では、そうは思いません。「特性が違う」と思うだけです。面白い作品を書くのが難しいのは脚本も小説も同じことです。
実は今回の小説『ビンボーの女王』は、いずれ映像化したいと思っています。書き出す時点で疑問に思ったのは、「映像化を目指す小説は、映像作品のプロットを長く詳しく書いたものとどう違うのだろう?」ということでした。プロットは「これを映像化しましょう」という中身を文章化したものですが、文章の形式は小説と変わりません。だとするとプロットにディテールを加えたりセリフを書き込んだりして長くして行けば、いつか小説になるのでは? 「そうだ、自分がこれから書くのは小説じゃない、映像化したいプロットの長いやつなんだ。プロットならいつも書いてるじゃないか・・・」初めて小説を書くプレッシャーを少しでも軽減しようと、そんなことを思ったのです。
しかし結果としては、当然ながら小説とプロットは違うものでした。一番大きな本質的な違いは、小説はそれ自体が完結した作品なのに対して、プロットは「これからこんな映像作品を作りましょう」という設計図に過ぎないということです。プロットなら「これをどう映像化するか」ということを当然考えますが、小説を書くうちにそんなことは頭から消えて、いつしか今表現しようとしていることに集中していました。
脚本と小説の片方だけやっていて、「あっちは難しそうだ」と思っている状態より、両方やってみて双方の特性を経験的に理解したことはよかったと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2017年9月3日]
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映画『世界は今日から君のもの』(主演・門脇麦)上映中 (劇場情報は公式サイトをご覧ください)
]]> 僕は小説を書くことはすごく難しいことのような気がしていました。脚本を書くよりは高度な能力を必要とする作業のような気がしていたのです。そう思わせる一番大きなポイントは「地の文」です。
脚本も小説も「ストーリー」「キャラクター」「セリフ」の存在は共通しています。大きく違うのは脚本には「ト書き」があるのに対して小説には「地の文」があるということです。ト書きは「誰それが歩いて来る」などと端的な動きや目に見えるものだけを簡潔に書くのに対して、小説の地の文は人物の内心の気持ちを描きます。ト書きは「それ以上詳しく書く必要はない」という限度が存在するのに対して、地の文はどれだけ詳しく描き込むかということに基準はありません。
ト書きでは目に見えないものは書いてはいけないとされるのに対して、地の文はむしろそれを書かないといけないのです。またその場の状況などもト書きに比べるとずっと細かく描写する必要があります。
「ストーリー」「キャラクター」「セリフ」は脚本を書くときにも考えていることなので何とかなるだろうと思いました。実際これらに関しては大きな違いはありませんでした。小説もセリフが多い方が読みやすくなります。そしてセリフが多いほど、書いているときの感覚は小説と脚本の違いが少なくなります。
しかし、地の文に関しては全くの手探りでした。結果としては手探りながらも何とかなりました。編集者に言われたのは「もっと行替えをした方がいい」とか「文末は『だ』や『である』など変化をつけた方がリズムが出る」ということくらいでした。純文学じゃないので、凝った美文を書く必要はなく、わかりやすく書くという点ではト書きと大きな違いはなかったのです。
「ここはト書きと違うな」と思った点は、人物の内面を書くということはもちろんですが、「意識がどこにあるかが割と自由」ということです。脚本はほとんど「神の視点」で描かれます。「Aが歩いて来る」のを誰が見ているのかと言うと、「Bの見た目」などと得に指定しない限りは客観的な神の視点となります。
それに対して小説は、「Aは××と思った」という内心の描写と「Aは家に着いた」という客観描写が地の文の中に混在します。また「Aは昨日の学校での出来事を思い出した」という次に「AはそのときBにこう言われた」と書いた場合、それはAの頭の中にある記憶を描写しているのか、それとも客観的な回想なのかということは曖昧なままでも構いません。それに対して脚本の場合は回想は回想として柱を立てて別のシーンとして書く必要があります。小説の方が客観と主観、現在と過去を自由に行き来出来るのです。もちろん読者が混乱しないかどうか確認は必要ですが。
読者として小説を読むとそんなことを意識しないで読んでいたのですが、いざ自分が書いたときにそういうことに改めて気づいたわけです。
この経験のおかげで、おそらく今後脚本を書くときにも脚本の特性をより意識して書くようになるような気がします。
教室の生徒の中には、こういった脚本と小説の特性をはっきり認識せず、ごっちゃにして書いている人がいます。「表現」とは、その媒体の特性を意識することで初めて出来るものだと思います。
次回は作品の内容に踏み込んで、『ビンボーの女王』という小説がどうして生まれたかということを書いてみたいと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2017年9月2日]
]]>[例1]
[作品]『昼下がりの情事』(ビリー・ワイルダー監督 57年)
[描写]ヒロインのアリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)は男・フラナガン(ゲイリー・クーパー)と会って、彼のプレイボーイぶりに腹を立てる。翌日アリアーヌはフラナガンを非難する手紙を書く。しかし書き終わった手紙を火にくべて燃やしてしまう。
[解説]非難の手紙を書くものの燃やしてしまうことで、彼女が男にひかれていることを表現しています。例えば日記に「私、あの人にひかれてるみたい」と書く描写では単なる説明にしかなりませんが、「非難の手紙を書くが、燃やす」と一旦逆に振ることで「ああ、このあと恋に落ちて行くんだろうな」という感じがしみじみと伝わります。野球でバットを振るとき、一度逆方向に振りかぶってスイングすることで打球が遠くに飛ぶのとメカニズムは似ています。
[例2]
[作品]『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー監督 60年)
[描写]主人公バクスター(ジャック・レモン)が落ち込んでバーで飲んでいると、おりしもクリスマスで、サンタクロースの恰好をした男が騒いでいる。
[解説]落ち込んだ主人公と同時に浮かれている人を存在させてコントラストをつけることで、主人公のやるせない気持ちを増幅する表現です。これは割とよく使われる手法です。『酔いどれ天使』(黒澤明監督 48年)で、主人公のヤクザ松永(三船敏郎)がうちひしがれた気持ちで街を歩いているとスピーカーから明るいカッコーワルツが流れてくるシーンなどもそうです。
[例3]
[作品]『刑事ジョン・ブック 目撃者』(ピーター・ウィアー監督 85年)
[描写]主人公の刑事ジョン・ブック(ハリソン・フォード)が敵に撃たれて怪我をして、アーミッシュの村に住む未亡人レイチェル(ケリー・マクギリス)の家に匿われる。レイチェルは危険だからとジョンの拳銃を預かる。ジョンが「銃を出してくれ」と言うと、レイチェルは小麦粉の中から粉まみれの銃を出す。
[解説]この作品は刑事ものであると同時にジョンとレイチェルのラブストーリーでもあります。荒っぽい世界に生きているジョンと平和的な暮らしをしているレイチェルの違いが、銃という暴力の象徴のようなものと小麦粉という生活を象徴するものをぶつけることで表現されています。銃が粉まみれになっていることで、ジョンがレイチェルに歩み寄って行く感じもわかります。そしてこれは不思議なことですが、このシーンを見ると、この二人がこれから恋に落ちるだろうということも感じられるのです。単に戸棚に仕舞ってある銃を出すだけでは、これらのことはほとんど表現されないのではないでしょうか。
[例4]
[作品]『ロッキー』(ジョン・G・アヴィルドセン監督 76年)
[描写]落ちぶれた暮らしをしていたボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)は、チャンピオンと試合をすることになる。彼に冷たく当たっていたミッキー(バージェス・メレディス)がトレーナーをやらせてくれと言ってくると、ロッキーは「今さらなんだ」と怒りをぶちまけて追い返す。しかし少ししてロッキーは肩を落として帰って行くミッキーを外に追いかけて行き、トレーナーになってくれと言って握手する。
[解説]自分に冷たくしていた男に「今さら何だ」と怒るのは当然として、このシーンでは、その会話の中でロッキーが考えを変えてトレーナーを頼むのではなく、一度は拒絶して追い返すものの、少しして思い直して外に追いかけて行くことで感動的なシーンになっています。ここでのロッキーの怒りは非常に激しく、とても同じ会話の中で考えを変える雰囲気ではありません。一度追い返してから、それでも追いかけて行くことでロッキーの優しさがしみじみと伝わります。振り幅を大きくすることで深みや感動が加わっているのです。
これらの例を見ると、二つの要素を同時に見せるか、前後に並べることで増幅の効果が出ることが多いようです。当然のことながら、増幅するには、まず「何を」増幅するか、ドラマの中でこれは増幅すべきものだという考えがなくてはなりません。
[告知です]
映画「世界は今日から君のもの」
監督・脚本:尾崎将也 / 音楽・川井憲次 / 主題歌・藤原さくら「1995」
出演:門脇麦 三浦貴大 比留川游 マキタスポーツ YOUほか
渋谷シネパレスほかで上映中
※8月6日(日)、テアトル梅田で僕の舞台挨拶を開催します。詳しくは劇場公式サイトで。
予告編
[尾崎将也 公式ブログ 2017年8月2日]
]]> 「増幅」というのは脚本を面白くするために非常に重要なテクニックです。この感覚を身につけるだけで作品が大きく変わるかもしれません。よく「粒立てる」「メリハリをつける」「振幅をつける」などと言いますが、同じようなカテゴリーのことです。
「粒立てる」とか「メリハリをつける」というのは言葉としては何となくわかるので、教室などで「粒立てろ」「メリハリをつけろ」と言われれば「わかりました」と答えるでしょう。しかし実際にそれが出来る生徒は少ないです。その意味するところを理解し、どうすればそうなるのかという具体的なテクニックを知らないからです。
単に人物の感情を激しくして「!」をたくさんつければよいのだと勘違いする人がいますが、そうではありません。もちろん「!」をつけることが効果的という場合もあるので、それも増幅のひとつの方法ということは出来ますが、それはほんの一部でしかありません。
わかりやすい例を挙げます。映画「ゴースト~ニューヨークの幻」のワンシーンです。冒頭、主人公のサムは昔のコインが入った瓶を見つけて「お守りだよ」と恋人のモリーに渡します。これはいわば二人の愛のシンボルのようなものです。ところが物語の展開の中で絶望状態に陥ったモリーは、この瓶を階段の上から落として割ってしまいます。
この瓶を割るシーンでは、モリーの絶望状態をお守りが入った瓶を割るという行為で「表現」しています。「私には何の希望もないわ」などと言うと単なる説明ですが、お守りの入った瓶を割るという行為でセリフなしで表現しているのです。
そしてもう一つ、この描写の中には「増幅」というテクニックが隠されています。それは「お守りが瓶に入っている」ということです。お守りはコインであって、瓶はただの入れ物です。ではなぜコインが瓶に入っている設定にしたのでしょうか。それは階段から落としたときにガチャン!と割れる、そのショッキングな感じを出したかったからです。裸のコインを投げてもチャリンと転がるだけで、インパクトはありません。瓶に入っていることでガチャンと割れるショッキングな表現にすることが出来ます。
この映画の脚本家は、最初サムがコインを裸の状態で見つけてモリーに渡す描写を書いたかもしれません。しかしこのシーンにさしかかったとき「コインだけ投げてもインパクトがないな」と思って瓶に入っていることにしようと思いついたのかもしれません。そして最初のシーンに戻ってコインが瓶に入っているというふうに書き直したのではないか。そんなふうに僕は想像します。
これが「増幅」の一例です。ここはストーリーの中でも重要なシーンなので、作者はこのときのモリーの絶望を強調したいわけです。そのための方法が「瓶に入っている」ということなのです。
面白い映画やドラマの中にはたくさんの増幅があります。こういうことをたくさんやることで作品は面白くなるのです。逆にこういうテクニックを知らず、何もしなければ、面白くならないのは当然です。
まずは面白い映画を見て、「ここに増幅があるな」と気づくことから始めなければなりません。そのためには、自分が何を面白がっているかということをよく見つめることです。
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映画「世界は今日から君のもの」
監督・脚本:尾崎将也 / 音楽・川井憲次 / 主題歌・藤原さくら「1995」
出演:門脇麦 三浦貴大 比留川游 マキタスポーツ YOUほか
渋谷シネパレスほかで上映中
予告編
[尾崎将也 公式ブログ 2017年7月21日]
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