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コンクールは運なのか?

Jul 04, 2013

CATEGORY : 脚本

僕は第五回フジテレビヤングシナリオ大賞を受賞して、プロになりました。それまで数年にわたり、何度もコンクールに応募していましたが、最後に大賞を受賞するまでは、最終審査にも残ったことはありませんでした。(日脚連の教室の内部のコンクールで佳作に入ったことがあるだけです)
結果として目標としていた賞が取れたので結果オーライという感じですが、コンクールというものに対する僕の感情はいいものとは言えませんでした。
テレビドラマのコンクールの受賞作は、大抵「月刊ドラマ」に掲載されます。自分の応募したものが落ちた後、そこに掲載された受賞作を読むことになります。そのとき毎回思うのが、「これがそんなにいいか?」ということでした。決して駄作ではないし、自分の作品の方が上だとまでは思いません。でもこれが一番だというなら、自分のも最終審査くらいに残ってもいいのではないか?と思えたのです。
受賞作がすごく面白い作品で、「よし、これを目標に頑張ろう」と思えるならモチベーションも上がりますが、「これがそんなにいいかな。自分のとどこがそんなに違うというんだろう」という感じだと、いまいち意気が上がりません。そんなスッキリしない状態がずっと続いていたのです。そして「もうコンクールなんてあやふやなものに頼るのはやめよう。これからは直接持ち込みをしよう」と決めて、最後に応募したものが大賞を受賞したのです。
受賞の知らせを受けて、もちろん嬉しいには違いないのですが、「え?これでいいの?」というような感じがありました。これが大賞だというなら、これまでに落ちた作品との違いは何だったのか。このとき僕は4本同時に応募していたのですが、他の3本は最終審査にも残っていません。同じ人間が書いた作品なのに、何がそんなに違うのかということは謎でした。
自分が受賞した作品はやはり「月刊ドラマ」に掲載されました。そこには作品と共に、審査をした大多亮さんや河毛俊作さんらフジテレビのプロデューサーやディレクターの方の対談が一緒に掲載されていました。そこではこんなことが言われていました。

河毛「僕はこれ何時書いたのかなあと思って......数年前に書いたのか、あるいは去年書いたのか。要するにフジテレビがトレンドドラマ終結宣言したあとに、これがきたことに意味があると思うんですよ。トレンドドラマ全盛の時にきたら引っ掛からなかったかも知れない」
大多「落してましたね」
(月刊ドラマ 1992年9月号より)

実は、僕はその作品をこの時点より二年前に書いていました。たぶん二年のズレがあったから賞をとったということでしょう。まさにコンクールには運の要素があるということを自分の受賞が証明したような形になったのです。
ただひとつ言えることは、1次審査で落ちるような作品が、運がよかっただけで大賞を受賞するようなことはないでしょう。最後の10~20本くらいの中でどれが受賞するかはある程度運の要素があるということだと思います。大事なことは、「入選するためにはこんな作品を書くべき」というような、ピンポイントな傾向と対策はないということです。そんなことより、とにかく誰が読んでも面白いと言えるような作品を書くことだけを目指すことです。そしてそれが出来るようになれば、あるコンクールで運悪く落ちても、どこかで誰かに目をつけてもらえるはずです。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年7月4日〕

WHATとHOWの問題・補足

Jun 24, 2013

CATEGORY : 脚本

前回書いたWHATとHOWについて、補足がいくつかあるので書いておきす。

プロに求められるのはWHATよりもHOWだと書きました。ただ、プロになる前段階のコンクールでは事情が違います。コンクールでは当然のとこながら最近の受賞作と同じような題材のものは評価されないでしょうし、反対に今までに見たことのないような新鮮な題材やテーマの作品は評価が高くなります。つまりコンクールではHOWだけでなくWHATも求められるのです。新鮮なWHATで作品を書いてコンクールに受賞してプロになったら、途端にWHATはプロデューサーから与えられて脚本家にはHOWだけが求められるという、ねじれ現象とでもいうような状況があります。

プロの場合、新人にはWHATについて発言する権利はほとんどありません(深夜ドラマなど自由度の高いものは別)。キャリアを積んで連ドラのメインライターをやるようになると、WHATに関しても発言権が出て来ます。同時にそのことに関する責任も発生します。「こんなドラマをやろう」と自分が言い出しっぺになって作ったドラマが、結果的に評価や視聴率が悪かった場合、脚本家としての評価に関わって来ます。尾崎将也作品で言えば「結婚できない男」は「自分の力が最大限発揮出来る」「視聴者が見たいと思う」の2点が両立した作品で、WHATの選択に成功したケースと言えます。

初心者は、とりあえずHOWの基礎を学ぶことが先決なので、WHATに関してはあまり難しいことや自分から遠いことは選ばない方がいいと思います。しかし身近なものにすると、今度は「自分の日常にドラマになりそうなことなんて何もないんですけど」ということになりがちです。でも「身近な題材=ドラマにならない」というのは勘違いです。そこに「こんなことが起こると面白いのでは?」というフィクショナルなアイデアを付け加える発想が必要になって来ます。こうなると、WHATの要素にHOWの要素が混じって来る感じです。料理の場合は「食材」と「調理」は完全に別のものですが、脚本においはWHATとHOWを完全に分けることは出来ないのだと思います。

WHATとHOWを区別するためのひとつの尺度は次のようなことです。例えばWHATだけを考えて書いた作品を人に見せるとき、作者の言葉は「これが私の書きたいことです」となります。それに対してHOWを考えて書いた作品は、「どうぞ楽しんでください」となるはずです。そして観客が常に求めているのは、自分を楽しませてくれる作品です。「これが私の書きたいことです」という作品に対しては「別にあんたが何を書きたかろうが関係ないよ」と言うはずです。それに関心を持ってくれるのは、友人や家族だけです。観客とは見ず知らずの一般大衆なのです。その人たちに対して「どうぞ楽しんでください」と言って差し出せる作品を書いているか。それを目指しているか。そこが大きなポイントだと思います。(もちろんそうやって差し出した作品が「つまらないよ」と言われることはあります)

〔尾崎将也公式ブログ 2013年6月24日〕

脚本の勉強におけるWHATとHOWの問題・その2

Jun 19, 2013

CATEGORY : 脚本

前回、WHATとHOWについて書こうと思ったのは、研修科の授業で生徒と話していて、改めてこの問題に直面したからです。ある生徒が、親に虐待された主人公が自分の子供を虐待してしまうという問題について書こうとしました。そのことに関心を持ち、書こうとするのは大いにけっこうなことだと思います。ただし「初心者にとっては難しいのではないか?」という疑問符がつきます。
ここでの「親との関係が自分の子供との関係にも影響を与える問題」は脚本の題材であり、WHATとHOWで言えばWHATの方です。そのことに関心を持ち、書いてみたいと思うのは悪いことではありません。ただしネックになるのは、現時点ではHOWに関しては全くの初心者だということです。
例えて言えば、運転免許をこれから取ろうという人がいきなりF1レースに出ようとしているような感じがするのです。将来、F1ドライバーになるという目標を持つのはけっこうなことです。しかし今やらなければならないのは、とりあえず運転免許を取ることです。そのためにやるべきことはF1レースに出場することではなく、教習所のコースで練習することです。
脚本で言えば、初心者がHOWの初歩を身につける(具体的には物語や人物の造形、構成の立て方、面白く読みやすい作品にする方法など)ためには、WHATの方も初心者向けのことにした方がいいのではないかということです。そして難しい題材は十分なHOWの技術が身についてから取り組んでもいいのではないか、ということが言えると思います。
ただ、ここで難しいのは感情面です。ある問題に関心を持ち、「このことを書きたい!」と強く思っていたとすると、そのWHATを手放すのはなかなか難しいことです。「このWHATは難しいから当面は置いといて、今は取り組みやすいWHATにしよう」と思えるかどうか。これはもう個人の問題なので、講師がどうこういうことではないと思います。
ただしもうひとつ認識しておくべき重要なことは、プロの脚本家に要求されるのはWHATよりもHOWの能力だということです。「原作はこれで」とか「主演俳優がこんなことをやりたいと言ってる」とか、プロの場合はプロデューサーからWHATが提示されることが多いのです。特に新人ほどWHATは相手から提示されます。その提示されたWHATを「どう料理するか」という能力が脚本家に求められるのです。
さて、前回予告した「尾崎将也はどうしてHOWの大切さを早くからわかっていたか」という件です。僕は中学一年のとき、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」を見て映画の面白さにはまりました。中学の頃は頭の中はほとんどブルース・リーと007で占領されていたような状態でした(従ってそこに「勉強」が割り込む余地はありませんでした)。僕はそれらの映画を見て「なんて面白いんだろう」と思い、「こんな面白いものを作る人に自分もなりたい」と思いました。つまり、僕が目指したのは純粋にその「面白さ、楽しさ」であり、「こんなテーマを描きたい」ということではなかったのです。「どうすればあんな面白いものを作れるか」ということを目指している人間が、HOWの習得を目指すようになるのはごく自然なことだったのです。高校の頃からはアメリカン・ニューシネマやヌーベル・バーグの映画など作家性の強い作品も見るようになりましたが、その前の入り口が純粋なエンタテインメントであったことが今となってはよかったのだと思います。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年6月19日〕

脚本の勉強におけるWHATとHOWの問題・その1

Jun 15, 2013

CATEGORY : 脚本

脚本を書く作業には、WHATとHOWの二つの側面があります。WHATは「何を書くか」。題材やテーマに関することです。そしてHOWは「どう書くか」。どんな物語にするか、どんな人物配置にするか、そしてそれらをどうやって面白くするか、というようなことです。
料理に例えると、WHATは食材でHOWが実際に調理する作業に当たります。料理の場合は食材があってそれを調理して料理が完成するということは一目瞭然です。しかし脚本の場合は、何がWHATで何がHOWなのかというのはかなりわかりにくいことです。特に初心者にとっては。
僕は、自分が生徒のときにWHATとHOWを特に意識的に分けて考えたことはありませんでした。特に考えなくても、プロになることは出来たのです。しかしプロになってから教室で講師をやるようになって、多くの生徒にとってこの問題が壁になっていることに気づきました。そのきっかけは、生徒と作品の直しについて話しているとき、どうも話が噛み合わないと感じることが多く、その原因は何か?と考えたことです。その噛み合わなさというのは、さっきの料理の例えで言えば、僕が生徒に「味付けはこうしたら?」と調理のことを言っているのに、生徒の方は「この野菜は無農薬野菜なんです」と別のことを言っている感じなのです。なぜそんなことが起こるかというと、生徒の頭の中には「調理」という概念がなく「食材」という概念しかないからです。無農薬の野菜を土が付いたままゴロンと皿の上に乗せて出せば、それで料理が完成するかのような錯覚をしているのです。
料理の場合は「それじゃ食べられないよ」というのはすぐにわかります。料理の食材は自分の目の前に存在し、調理する作業も目の前で行われます。だからそれらを客観視することが出来るのです。しかし脚本を書く作業は目で見ることの出来ない脳の中で行われ、出来上がった作品は文字の羅列として存在し、「ここがWHATで、ここがHOW」などと分けて見ることが出来ません。そのため脚本を書く作業の中でのHOWとは何なのか、そしてそれをどうやって勉強すればいいのかが非常に捉えにくいものとなり、それがよくわからないために勉強の成果が上がらないのです。そして厄介なことに、プロになるためにより必要とされるのは、WHATよりもHOWの能力の方なのです。
以前書いた「映画を分析する方法」などはHOWに関することです。僕の場合は、なぜか嗅覚的にHOWの重要性を最初から認識していたようです。次回は、「尾崎将也はなぜ無意識的にHOWの大切さを知っていたのか?」など、この問題をもう少し深めて考えてみます。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年6月15日〕

プールに飛び込む

Jun 09, 2013

CATEGORY : 脚本

教室の研修科の授業の中で、僕はよく生徒に対して「プールに飛び込め」という言い方をします。多くの生徒の作品が、足をちょっと水につけただけで「泳ぎました」と言っているような「感じ」がするからです。脚本を書くためには、その題材や登場人物の人生にザブンと飛び込んで、バシャバシャと泳ぐことが必要です。
でも言われた生徒の方は、脚本を書くということにおいて、足をちょっとつけただけというのと水に飛び込んで泳ぐということの違いがよくわからないようです。これまでの人生でそんなことをやったことがないので、自分がそれを出来ているのかどうかはもちろん、ドラマを書くにはそういうことが必要なのだということ自体がピンと来ないのだと思います。
この感じを説明するのはなかなか難しいのですが、具体的なバロメーターとしては、自分が主人公にどれだけ共感や理解をしているかということがあります。しかし共感している度合いを数字で計ることは出来ないし、「自分の共感は十分なのか」など判断するのは難しいことです。また人物を突き放したようなタッチの作品でもいい作品はあるし、とにかく共感さえすればいいというものでもなさそうです。
人物に対する理解の度合いは、例えば「その人にもしこんなことが起こったらどうするか?」という質問に「その人はそういうときはこうする」とすぐに答えられるかどうかで計れると思います。
よく人物の履歴書を書けと言いすまが、それはこのような共感や理解を起こすための方法なのだと思います。しかし履歴書はしょせんデータに過ぎず、それを書きさえすればOKなのかというとそれも違います。ドラマを書くために必要な共感や理解は、左脳的なものではなく右脳的なものです。履歴書というものがどうしても左脳的な感じがして、僕はあまりドラマ作りにはなじまない感じがします。もちろん全く無意味とは思いませんが。
このへんのことがある程度出来るようになると、脚本の中で「人物が動き始める」ということが起こります。それにしても、これらは全部自分の脳の中で起こることなので、スポーツのように「ほら、こうやって」とお手本を目に見える形で示すことが出来ません。「こうかな?こうかな?」と手探りでやって行くしかないのだと思います。プロになってからも、レベルこそ違えど、そういう手探りは常に続くわけです。プロの場合はプールに飛び込んだあと、どうやって泳ぐかということで日々四苦八苦しているのです。

〔尾崎将也公式ブログ 2013年6月9日〕

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