脚本の勉強におけるWHATとHOWの問題・その2
前回、WHATとHOWについて書こうと思ったのは、研修科の授業で生徒と話していて、改めてこの問題に直面したからです。ある生徒が、親に虐待された主人公が自分の子供を虐待してしまうという問題について書こうとしました。そのことに関心を持ち、書こうとするのは大いにけっこうなことだと思います。ただし「初心者にとっては難しいのではないか?」という疑問符がつきます。
ここでの「親との関係が自分の子供との関係にも影響を与える問題」は脚本の題材であり、WHATとHOWで言えばWHATの方です。そのことに関心を持ち、書いてみたいと思うのは悪いことではありません。ただしネックになるのは、現時点ではHOWに関しては全くの初心者だということです。
例えて言えば、運転免許をこれから取ろうという人がいきなりF1レースに出ようとしているような感じがするのです。将来、F1ドライバーになるという目標を持つのはけっこうなことです。しかし今やらなければならないのは、とりあえず運転免許を取ることです。そのためにやるべきことはF1レースに出場することではなく、教習所のコースで練習することです。
脚本で言えば、初心者がHOWの初歩を身につける(具体的には物語や人物の造形、構成の立て方、面白く読みやすい作品にする方法など)ためには、WHATの方も初心者向けのことにした方がいいのではないかということです。そして難しい題材は十分なHOWの技術が身についてから取り組んでもいいのではないか、ということが言えると思います。
ただ、ここで難しいのは感情面です。ある問題に関心を持ち、「このことを書きたい!」と強く思っていたとすると、そのWHATを手放すのはなかなか難しいことです。「このWHATは難しいから当面は置いといて、今は取り組みやすいWHATにしよう」と思えるかどうか。これはもう個人の問題なので、講師がどうこういうことではないと思います。
ただしもうひとつ認識しておくべき重要なことは、プロの脚本家に要求されるのはWHATよりもHOWの能力だということです。「原作はこれで」とか「主演俳優がこんなことをやりたいと言ってる」とか、プロの場合はプロデューサーからWHATが提示されることが多いのです。特に新人ほどWHATは相手から提示されます。その提示されたWHATを「どう料理するか」という能力が脚本家に求められるのです。
さて、前回予告した「尾崎将也はどうしてHOWの大切さを早くからわかっていたか」という件です。僕は中学一年のとき、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」を見て映画の面白さにはまりました。中学の頃は頭の中はほとんどブルース・リーと007で占領されていたような状態でした(従ってそこに「勉強」が割り込む余地はありませんでした)。僕はそれらの映画を見て「なんて面白いんだろう」と思い、「こんな面白いものを作る人に自分もなりたい」と思いました。つまり、僕が目指したのは純粋にその「面白さ、楽しさ」であり、「こんなテーマを描きたい」ということではなかったのです。「どうすればあんな面白いものを作れるか」ということを目指している人間が、HOWの習得を目指すようになるのはごく自然なことだったのです。高校の頃からはアメリカン・ニューシネマやヌーベル・バーグの映画など作家性の強い作品も見るようになりましたが、その前の入り口が純粋なエンタテインメントであったことが今となってはよかったのだと思います。
〔尾崎将也公式ブログ 2013年6月19日〕