サルでもドラマの主人公になれる時代
「猿の惑星:創世記」(11年 ルパート・ワイアット監督)を見て、ドラマにおける「主人公」というものについて改めて考えさせられました。普通、ドラマは主人公の行動や感情を軸として進んで行きます。受け身なだけの人物や行動しない人物は主人公にはなりにくいものです。逆に言えば、そのドラマの中で一番行動している人物、物語を主体的に動かしている人物が主人公ということです。
ドラマを分析的に見るとき、まずは誰が主人公か見定める必要があります。大部分の作品は一目瞭然で主人公がわかりますが、中にはちょっと考えないといけない作品もあります。例えば「ローマの休日」の主人公はオードリー・ヘップバーン演じるアン王女ではなく、グレゴリー・ペック演じるジョー・ブラッドレーです。この物語は、ジョーがアン王女をローマの街を案内することで特ダネをモノにしようと考え、その目論見を実行することで物語が進んで行きます。アン王女が主人公のような印象を受ける人が多いでしょうが、分析的に見れば主人公はジョーだとわかるのです。
さて「猿の惑星:創世記」の主人公は、実験で知能が発達したチンパンジーのシーザーか、彼に知性を与える研究者のウィルか。ウィルは最初にシーザーに知能を与える役目を果たすものの、その後は状況に受け身的に振り回され、主体的に物語を動かしているとは言えません。それに対してシーザーは、知性を持ってしまったために環境に適応出来ず、劣悪な施設に入れられてしまい、そこで苦難を味わうものの、それを乗り越えて他の猿たちを配下に従えて脱走する、というふうに自ら物語を進めて行きます。やはり主人公はシーザーでしょう。
この映画でシーザーを主人公にすることは、かなり思い切った選択だったのではなかったかと思います。なぜかというとシーザーは人間ではなく猿で、しかもCGで作られたキャラクターだからです。これまでにも実写映画で人間ではない動物やロボットが重要な役割を果たす作品はありましたが、それらの作品で主人公になるのは人間でした。「猿の惑星」の一作目は主人公は猿ではなく人間のテイラー(チャールトン・ヘストン)だし、「E.T.」の主人公はE.T.ではなくエリオット少年です。
一方アニメーションでは、人間も人間以外の存在も絵で描かれている点は同じなので、人間ではないモノが主人公になるケースはいくらでもありました。例えば「モンスターズ・インク」のように。
実写の場合は、生身の人間の俳優が出ているので、その俳優を差し置いて動物やロボットを主人公にするのは気が引けるようなところがあったのだと思うのです。スターに出演を頼むとき、「主役はCGの動物です。あなたには脇役をお願いします」などとは頼みにくいでしょう。
「猿の惑星:創世記」を見ると、その一線が崩れ始めていることを感じます。ひとつにはCGの発達により、人間以外の存在を感情表現まで含めてリアルに描写できるようになったことがあるでしょう。
しかし、それによってドラマの本質が変わったわけではありません。脚本家にとっては、むしろドラマの表現の幅が広がったと歓迎すべきことでしょう。一方、俳優さんはCGに主役の座を奪われる可能性が出て来たわけで、うかうかしてられない時代になったと言えるかも知れません。
〔尾崎将也公式ブログ 2013年3月30日〕