「シャレード」はドラマを面白くする鍵
脚本の手法を表すものとして「シャレード」という言葉があります。新井一さんの「シナリオの基礎技術」の中に出て来るものです。シャレードの元の意味は「ジェスチャー・ゲーム」のことらしいですが(オードリー・ヘプバーン主演の映画『シャレード』は、この意味でしょう)、脚本の手法としては、「言葉に頼らず、何かに託して表現すること」というような意味です。「説明ではなく、映像で表現すること」全般を意味していると考えていいでしょう。しかしこの言葉はあまり普及はしていません。長年脚本家をしていて、プロデューサーや他の脚本家が「シャレード」という言葉を使うのを僕は聞いたことがありません。
でも僕は、この言葉がもっと普及してもいいのではないかと思います。言葉が普及することで、その概念も普及するということがあります。例えば「セクハラ」という言葉が普及する前からセクハラはあったわけですが、言葉が普及することで、人々がその概念を理解して「それはセクハラですよ」と注意したりということが起こるわけです。そういう意味で、シャレードという言葉とその意味するところがドラマ関係者や脚本を学ぶ人全般に普及するのは悪いことではないと思います。
例えば「ローマの休日」の最初の方で、アン王女がパーティの場で立っているとき、スカートの中で片方の靴を脱いで足を掻いているという描写があります。これは王女がこういう生活に退屈しているという心理を表しています。ただのギャグ以上の意味があるのです。シャレードの一例です。王女が独り言で「ああ、退屈だわ」と言えばただの説明ですが、この足を掻くという描写によって、観客はユーモラスな面白さを感じると同時に王女の気持ちを無意識に感じ取り、この作品世界にスムーズに入って行くことが出来るのです。
これを従来のように「心理を映像で表現するテクニック」と言ってもいいのですが、「ここにシャレードがある」と言った方が「他にどんなのがあるか探してみよう」とか「自分の作品でも考えてみよう」という作業に入りやすいのではないでしょうか。
あと、さっき「言葉に頼らず」と書きましたが、言葉によるシャレードもあるのではないか?という気もします。例えば「ゴースト/ニューヨークの幻」の中で主人公サムは恋人モリーが「愛してる」というのに対して「同じく」と答えます。これは照れとか幸せを恐れるような気持ちから出た言葉です。単に面倒だからそういう言い方をしているだけではないのです。このように、ある言葉に別の意味がこめられているような場合もシャレードと言っていいのかどうか。シャレードが映像表現に限定されたものなら、言葉は入らないということになりますが。
いずれにしても、シャレードをいかに効果的に使うかが、脚本の面白さを大きく左右するのは間違いありません。
[尾崎将也 公式ブログ 2015年1月28日]