脚本家が小説を書くということ(2) 脚本と小説、どっちが難しい?
前回のブログの最後に「次回は『ビンボーの女王』という小説がどうして生まれたかということを書いてみたいと思います。」と書きましたが、補足したいことが出て来たのでそちらを先に書きます。
前回、「僕は小説を書くことはすごく難しいことのような気がしていました。脚本を書くよりは高度な能力を必要とする作業のような気がしていたのです。」と書きました。その後でふと思い出したのですが、以前ある人に「脚本って小説より難しいですよね」と言われたことがありました。自分が思っていたことと逆だったので、僕は意外な気がしたのですが、彼がそう思う理由は、小説家は二十代でデビューする人がいる(中には十代の人も)が、脚本家はほとんどが三十代を過ぎてからデビューするから、ということでした。
実際、脚本家のデビューは小説家より遅いのかもしれません。データをとったわけではないので正確にはわかりませんが、少なくとも十代で彗星のようにデビューして脚光を浴びた脚本家というのは聞いたことがありません。
しかし、だから脚本の方が難しいということにはならないのではないかと思います。小説は自分の知っている身の回りのことや、自分の分身のような主人公の内面を描くことで作品が成立します。それに対して脚本の場合、プロとしてやって行くにはより幅広い人物(年齢層や職業など)や事柄を客観的に描く必要があります。それを書くにはある程度社会人経験がある方が有利です。脚本家の方がデビューが遅いとしたら、脚本が難しいからではなく、脚本と小説の特性の違いによるものではないでしょうか。
以前、小説は脚本より難しそうだと思っていた僕ですが、実際に小説を書いた今では、そうは思いません。「特性が違う」と思うだけです。面白い作品を書くのが難しいのは脚本も小説も同じことです。
実は今回の小説『ビンボーの女王』は、いずれ映像化したいと思っています。書き出す時点で疑問に思ったのは、「映像化を目指す小説は、映像作品のプロットを長く詳しく書いたものとどう違うのだろう?」ということでした。プロットは「これを映像化しましょう」という中身を文章化したものですが、文章の形式は小説と変わりません。だとするとプロットにディテールを加えたりセリフを書き込んだりして長くして行けば、いつか小説になるのでは? 「そうだ、自分がこれから書くのは小説じゃない、映像化したいプロットの長いやつなんだ。プロットならいつも書いてるじゃないか・・・」初めて小説を書くプレッシャーを少しでも軽減しようと、そんなことを思ったのです。
しかし結果としては、当然ながら小説とプロットは違うものでした。一番大きな本質的な違いは、小説はそれ自体が完結した作品なのに対して、プロットは「これからこんな映像作品を作りましょう」という設計図に過ぎないということです。プロットなら「これをどう映像化するか」ということを当然考えますが、小説を書くうちにそんなことは頭から消えて、いつしか今表現しようとしていることに集中していました。
脚本と小説の片方だけやっていて、「あっちは難しそうだ」と思っている状態より、両方やってみて双方の特性を経験的に理解したことはよかったと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2017年9月3日]
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