脚本家が小説を書くということ(1) 「地の文て何?」
この度、初めての小説『ビンボーの女王』を出しました。脚本家として二十年以上仕事をして来ましたが、小説を書いたのは初めてです。
これまでにも「小説は書かないんですか?」と聞かれたことは何度もありましたが、積極的に書きたいとは言いませんでした。自分は映像表現の人間だと思っていたのです。脚本だけでなく監督をやりたい気持ちは強くあり、実際やったのですが、文字で表現する小説を書くことにはさほどモチベーションが沸かなかったのです(もちろん小説を読むことは昔から大好きです)。
河出書房新社さんから「小説を書いてください」と依頼を受けたとき、その気持ちはそんなに変わらず、「時間があれば書きます」と答えました。ところがたまたま時間が出来たのです。そうなると、「思い切ってやってみよう」という気持ちになりました。小説を書くことにさほどモチベーションがないと言いながらも、機会があれば新しいことにどんどん挑戦してみたいという気持ちも同時に持っているのです。
僕は小説を書くことはすごく難しいことのような気がしていました。脚本を書くよりは高度な能力を必要とする作業のような気がしていたのです。そう思わせる一番大きなポイントは「地の文」です。
脚本も小説も「ストーリー」「キャラクター」「セリフ」の存在は共通しています。大きく違うのは脚本には「ト書き」があるのに対して小説には「地の文」があるということです。ト書きは「誰それが歩いて来る」などと端的な動きや目に見えるものだけを簡潔に書くのに対して、小説の地の文は人物の内心の気持ちを描きます。ト書きは「それ以上詳しく書く必要はない」という限度が存在するのに対して、地の文はどれだけ詳しく描き込むかということに基準はありません。
ト書きでは目に見えないものは書いてはいけないとされるのに対して、地の文はむしろそれを書かないといけないのです。またその場の状況などもト書きに比べるとずっと細かく描写する必要があります。
「ストーリー」「キャラクター」「セリフ」は脚本を書くときにも考えていることなので何とかなるだろうと思いました。実際これらに関しては大きな違いはありませんでした。小説もセリフが多い方が読みやすくなります。そしてセリフが多いほど、書いているときの感覚は小説と脚本の違いが少なくなります。
しかし、地の文に関しては全くの手探りでした。結果としては手探りながらも何とかなりました。編集者に言われたのは「もっと行替えをした方がいい」とか「文末は『だ』や『である』など変化をつけた方がリズムが出る」ということくらいでした。純文学じゃないので、凝った美文を書く必要はなく、わかりやすく書くという点ではト書きと大きな違いはなかったのです。
「ここはト書きと違うな」と思った点は、人物の内面を書くということはもちろんですが、「意識がどこにあるかが割と自由」ということです。脚本はほとんど「神の視点」で描かれます。「Aが歩いて来る」のを誰が見ているのかと言うと、「Bの見た目」などと得に指定しない限りは客観的な神の視点となります。
それに対して小説は、「Aは××と思った」という内心の描写と「Aは家に着いた」という客観描写が地の文の中に混在します。また「Aは昨日の学校での出来事を思い出した」という次に「AはそのときBにこう言われた」と書いた場合、それはAの頭の中にある記憶を描写しているのか、それとも客観的な回想なのかということは曖昧なままでも構いません。それに対して脚本の場合は回想は回想として柱を立てて別のシーンとして書く必要があります。小説の方が客観と主観、現在と過去を自由に行き来出来るのです。もちろん読者が混乱しないかどうか確認は必要ですが。
読者として小説を読むとそんなことを意識しないで読んでいたのですが、いざ自分が書いたときにそういうことに改めて気づいたわけです。
この経験のおかげで、おそらく今後脚本を書くときにも脚本の特性をより意識して書くようになるような気がします。
教室の生徒の中には、こういった脚本と小説の特性をはっきり認識せず、ごっちゃにして書いている人がいます。「表現」とは、その媒体の特性を意識することで初めて出来るものだと思います。
次回は作品の内容に踏み込んで、『ビンボーの女王』という小説がどうして生まれたかということを書いてみたいと思います。
[尾崎将也 公式ブログ 2017年9月2日]